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幸せな家庭のカタチを考えるブログ

死別シングルファザーの一周忌

明日は妻の一周忌。1年前、厳密には364日前に妻が生きていたことが信じられないほど、今では娘と2人の生活に慣れている。あっという間のようで10年くらい経ったように感じるほどあの日を境に生活は変わった。四十九日とか一周忌と一定のタイミングで故人を偲ぶことが本人の成仏に繋がるそうだが、そんな1年の節目とか関係ないくらい毎日祈り続けている私にはそんなリマインドみたいな期間設定さえも煩わしく感じられる。

妻はマンガ・小説・エッセイ・学術書を問わず本が好きで、生前は部屋一面を本棚で埋めて暮らしたいと言っていた。その夢は叶えてあげられなかったが、せめて好きなものに囲まれて休んでほしかった。だから妻の遺影は本棚の一角に置いていて、毎日手を合わせている。知識であれ表現であれ、好きな本というのは本人の嗜好性を語る。それ故に手を伸ばすことが憚られることもあったが、今日妻の本棚から2巻で終わるマンガを手に取って読んだ。

その本は婚約者のいる妹の葬儀から始まった。姉と婚約者が罪悪感や葛藤を抱えながら交際し、妹のゆかりの地を回り、最終的に半ば駆け落ちのような形で同棲を開始するところで終わった。駆け落ちと言いながらも浮かれた描写ではなく、妹の生前の思い、いわば呪いのような感情を身にまとい、終わる。たくさんの本が好きだった妻はこの本を手元に置き、何を思ったのだろうか?再婚、仲の良い姉妹、お互いに羨望を向け合う人間関係を見て、共感や憧れを感じたのかもしれない。少なくとも配偶者を亡くした私にとって、残された人間としての呪いのような感情の片鱗を感じる描写に心を動かされた。正確には動揺かもしれない。

今でも救急車のサイレンを聞くと、妻の最期を思い出す。もっと人工呼吸がうまくできたら助かっていたのかもしれない。人工呼吸をしながら、救急車に乗りながら「妻が意識を取り戻した後に私たちは結婚した時のような幸せな関係に果たして戻ることができるのだろうか」という不安を抱えていたのがいけなかったではないか。そんな不安を妻は汲んでしまったのではないか?

自殺がこの世からなくなってほしい。その気持ちは私の現実逃避のようなもので、結局私が妻を助けられなかったことを受け止めたくないのではないだろうか。そう思ってメンタルクリニックやカウンセリングでも尋ねた。「自分を責めてはいけない」と言われた。それはそうだ。私だってそう言う。やらない善よりやる偽善。ただ私の場合、偽善もというよりもただの八つ当たりなのではないか。妻が亡くなったのは自殺するような世の中のせいであって、私は悪くない。そんな事が言いたいのではないか?

娘に寝る時に「パパもママも娘のこと大好きだよ」と声をかけることにしている。妻が残した娘へのメールにそう書いてあったからだ。彼女が最期に願ったのは娘の幸せだった。それくらい私を含むこの世界に絶望していた。きっとそうさせたのも私だ。彼女の親族に会う度にそう言えないでいる。これが本心であるがゆえに同情、いわんや励ましの言葉を引き出すことが許されない事だとわかっているからだ。

手を合わせるたびに妻に愛していたと伝えていいのかいつも迷っている。愛していたなら何故幸せにできなかったのだろう。愛していると伝えることが死後彼女を苦しめることになるのではないか?そんな疑問が否定できない。だから安らかに眠ってほしいと伝えている。彼女は本当に苦しみ続けていた。その苦しみを私が取り除けなかった責任を放棄したくはないのだが、そんな自分の感情より彼女の安らかな感情を願ってしまう。

どうしたら生きているあなたを幸せにすることができたのか?多くの家庭で実現している配偶者の幸せを実現できず、その方法が思いつかないまま一年が経った。私は残念ながらまだ死ねないし、死後の世界は信じていない。それでも死後妻に会っていいように、もう少し伝えたいことを生きている間にまとめていきたい。